「おはよー」
いつもと同じ登校時間。
「あ、おはよ。花梨」
いつもと同じ挨拶。
「ねー、なんで昨日休んだの?花梨がいなかったから、昨日の体育の試合、負けちゃったんだよ?」
いつもと同じ朝。
「ゴメンゴメン、ちょっと風邪拗らせちゃってさ」
いつもと同じ……。
「へー……花梨が風邪って珍しいね」
昨日あったことが夢のようにさえ思える。
だが、実際にあった。
今花梨が身につけている、弾が昨日くれた〈ヘルメス〉というネックレスがその証拠。
先生に何か言われると困るので、制服の下に隠している。
詳しい説明もなく、「ずっとつけておけ」と言われたので、花梨はとりあえず従っていたりするのだが……。
(ただのプレゼント……じゃないよね)
弾は意味もなくそんなことは言わないだろう、と花梨は何の根拠もなく思っていて、今朝からその意味をずっと考えていた。
(何か特別なネックレスなのかな……)
「花梨、花梨」
思考が、舞の言葉によって中断された。
「あ、何?」
「何?じゃないよ、もう。朝っぱらからボーっとしちゃってさ……大丈夫なの?」
花梨の親友である斉藤舞は非常に心配性で、泣き虫。
彼女自身のことよりも、他人を心配しすぎて泣いている回数の方が多いくらいだ。
そんな舞は、女の花梨から見てもかなりの美人。
長身に黒のロングヘアー。肌は白くて綺麗だし、大きめの目も魅力の一つなのだろう。
モデルになっていてもおかしくはない。
体育以外の勉強は、ほぼ完璧に出来るという羨ましい頭の持ち主でもある。
体育がダメな理由は、単に運動音痴だから。
筆記のテストでなんとかそれをカバーしているが、それでも体育の評定で五を取ったことはないらしい。
可愛くて運動音痴ならよく聞くが、美人で運動音痴はあまり聞かない。舞はそれに加えて心配性の泣き虫。
そのちぐはぐさが、男子からの人気を集めているようだ。
舞は花梨の顔をのぞき込んだ。お互いの顔の位置が非常に近い。
もし今の花梨のポジションに男子がいれば、確実に赤面してそのうち半分くらいはキスをしようとするだろう。
それくらい舞はもてるのだ。
「う、うん。平気」
「ホントに平気なの?嘘だったら……」
「わ、ちょ……ホントに平気だから、朝から泣かないでー。大体、嘘つく意味ないでしょ?」
今にも泣き出しそうな舞を見て、花梨は慌ててなだめた。
こういうことはよくあるのだが、とても耐えられるものではない。
周りが知らない人ばかりだと花梨が泣かせたように思われてしまうし、
知っている人だと、さっさと泣きやませろよ、とでも言わんばかりの白い目で見られてしまう。
とりあえず、それは避けたいという一心でなだめる……が、
「それはそうだけど……花梨、自分が辛くても私たちに言わないこと多いし……」
という言葉で、反論が不能になった。
確かに、花梨は辛いことがあっても大抵は自分一人で片づける。
花梨の本心は舞達に迷惑をかけたくないからなのだが、それを言ったからといって、舞が引き下がるとは思えなかった。
十中八九「迷惑でも何でもないから言って」と言われてしまう。
更に、前科がかなり多いのだ。
だから、花梨が反論を止めた──直後。
ゴッ
鈍い音を立てて、舞の後頭部が〈広辞苑の角〉で叩かれた。
「……ったーい……酷いよ、司……」
「酷いよ、じゃねえだろ。さっきからうるさいっての。大体、舞は他人を心配しすぎて逆に迷惑かけてんだよ」
舞を叩いたのは、彼女の双子の弟である司だった。
人付き合いがよく、時々優しい一面を見せる彼は、舞と同じくかなりの美形。
二卵性双生児らしいのだが──どうやら、舞の一家は美形の集まりらしい。
鼻が少し高いので、こっちは外国人タレントのようだ。
身長は180センチくらいで、はねた髪の毛に小麦色の肌が似合っている。
舞が泣き出しそうな時は、大抵彼が舞を黙らせるので、クラスの皆からありがたがられている存在でもある。
「だからって叩かなくても」
舞が潤んだ目で少し怒ったように睨むが、司は全く動じず言い返す。
「叩かなきゃ泣き出してただろうが」
(本当に、何も変わらないなあ)
昨日、弾が寝に行く直前に言った言葉が花梨の頭を過ぎる。
『俺がお前を護る。お前はいつもどおりの生活を続けてればいい。何も変わらないさ』
(私を気遣って言ってくれたのかな……)
妄想じみた考えが浮かんで──すぐに消えた。
(馬鹿馬鹿しい。私、何考えてるんだろ……)
「花梨、花梨」
またボーッとしていたように見えたのだろう。
いつの間にか、舞がまた花梨の顔を覗き込んでいた。
「ねえ、本当に大丈夫なの?」
その問いに、花梨は苦笑で答えることしか出来なかった。
一限目終了後は、いつもより騒然としていた。
原因は今日来た転校生らしい。
転校生が来たと知るや、それがどんな人か見に行こうとする生徒は非常に多い。
花梨もそんな中の一人で、先に見に行った人達が口々に
「すっごい可愛い!」だとか「抱きしめて頬ずりしたーい」とか言っていたので、
興味津々で、転校生を見に行こうと思っていた矢先、弾を見つけた。
(へ?)
見間違いではなく、それは確かに弾だ。しかも花梨の制服を着て校内を歩いている。
それの意味することは──。
(転校生って……弾のことだったの!?)
他の人の話から、非常に可愛い女子だと勝手に推測していた花梨の驚きは尋常ではない。
思わず叫びそうになって、口を手で押さえた時──目があった。
弾は花梨の方へとまっすぐ歩いてくる。
(……まずい)
まだ距離が開いているので何も言ってこないが、目前に来た場合、弾は何と言うのだろう。
普通ならば、最初に名前を呼ぶ。
だが、弾は花梨の名前を知っているだろうか?少なくとも花梨は、教えた記憶は無い。
では何と言うだろうか。
一つの、危険極まりない可能性が花梨の頭を過ぎった。
そして、案の定。
花梨の目の前で立ち止まった弾は、〈その言葉〉を口にしようとしたので
「マスぐっ……」
花梨はボディーブローで黙らせた。
「何しやがる……」
少し強くやりすぎただろうか。弾はお腹を抱えつつ、殴られた意味が判らない、とでも言いたげな顔をしている。
「危ないこと口走りそうだったからね。保身のため」
「花梨、何してるの?」
声のした方を振り向くと、舞がおどおどと二人の方を見ている。
いや、舞だけではない。いつの間にか、二人を囲む形で人だかりが出来ていて、みんなが見ていた。
やってしまった、と花梨は舌打ちをした。
弾が転校してきたばかりなので、注目の的だと言うのを忘れていたのだ。
黙らせるためとはいえ、殴ったところを人に見られた。
良い言い訳が思い浮かばない上に、死ぬほど恥ずかしかったので、花梨はとりあえず──逃げた。
弾には意味が判らなかった。
聞きたいことがあったので、「マスター」と声をかけようとしたら突然腹を殴られたのだ。
ガーディアンにも痛覚はある。確かに身体は丈夫だし、回復も非常に早い。だが、痛いものは痛い。
花梨が顔を真っ赤にして逃げ出してから十数秒。既に痛みは無いが、弾には未だに殴られた意味が判らない。
保身のためらしいが、ガーディアンがいるのだから、マスターがそんなことを考える必要は無いのだ。
(とりあえず、今はマスターを捜しに行かないと……)
ノンシェイパーの主な活動時間は夜なのだが、油断は出来ない。
幸い、昨日ヘルメスは渡しておいたので、花梨の位置は把握出来る。
「自宅に向かってるか……」
周りには聞こえない程度の大きさの声で、確認のために呟いて──周りの人を押しのけつつ、マスターの後を追った。
「マスター、何で殴ったんだ?」
追い掛けてきた弾が最初に言った言葉がこれで、聞いた瞬間、花梨は頭が痛くなった。
一般的な常識で考えればすぐに判るのに、まだ弾は判っていないからだ。
「私には鈴木花梨って名前があるの。マスターなんて呼ばないで」
「今後そうする。それで、理由は?」
さっさと話の確信に迫ろうとする弾の態度は、花梨は嫌いではなかった。
でも今回は別で、かなり口元が引きつる。
「マスターには主人って意味があって、大抵の人はそっちの意味で考えるでしょ。
だから、変に勘違いされたくなかったの!大体、何も変わらないって昨日言ったよね?
学校で変な噂が流れたら、変わるに決まってるでしょ!
それくらい考え……?」
突然、弾の目つきが変わったので、花梨は思わず言葉を切る。そして、気がついた。
今、この場には花梨と弾の二人しかいない。二人が黙れば、この近辺は静寂に包まれるはずである。
なのに、どこからともなく笑い声が聞こえている。弾の目つきが変わった理由がこれだった。
低い笑い声。非常に不気味で、人を小馬鹿にしたような笑い声。
それは、すぐに二つの話し声に変わった。
『見つけたね』
『弾君もいるな』
『やっぱりガーディアンは傷の治りが早いね。もう完治してるみたい』
『そうだな。でも、早く治ってくれたおかげで、俺らはまたゲームが出来るからいいじゃないか』
「出てきやがれ!」
二つの声に向かって、声を荒げて叫ぶ弾。
弾の声には、怒りと憎悪の感情が溢れんばかりに込められていた。
その声に、花梨は思わず身震いをする。
『そう焦るものではないよ、弾君』
『そうそう、ゲームは楽しまなくっちゃ』
『今日は、ただの挨拶だ。ゲームスタートは、明日の夜から』
『気を抜いてると、今回もマスターソウル貰っちゃうよー』
「クソがっ……」
弾が罵声を浴びせた後には、もう何も聞こえなかった。