「きゃ〜!」
……またか。
俺は溜息をついて、本を閉じた。
本日三度目の悲鳴。
誰の、などと訊いてはいけない。
アナエルに決まっているからだ。
アナエルと契約して、まだ一日しか経っていない。
だというのに、俺はどんどんと後悔し始めていた。
昨日は特にすることもなく、飯を食って寝た。
そこまではまだ良かった。
だが、今朝はアナエルの悲鳴で目を覚ました。
何事かと思って行ってみれば、倉庫部屋にある魔術用具の山の下敷きになっていたのだ。
棚にあったものを全部ひっくり返したんだろうが、どうやったらあんなふうに下敷きになれるのか……。
パッとアナエルを見たときは、潰れたカエルを連想したほどだ。
とりあえずアナエルを引っ張り出すべきかと思ったが、棚の中には衝撃に反応する魔術用具もある。
山に埋もれているアナエルがいなくなると、当然山は崩れ、衝撃が生まれる。
今思えば、棚がひっくり返ったときに反応しなかったのが不思議だが……。
まぁとりあえず、そんな危険なことをする訳にもいかず──俺は山を少しずつ崩すことにした。
山を崩すのに一時間。
散らかった魔術用具を元の位置に片付けるのに三十分程かかった。
崩しながら片付けることが出来れば早かったのだが……如何せん山の位置が悪かった。
扉を開けてすぐの所にあったので、棚まで手が届かなかったのだ。
朝っぱらから無駄な労働をさせられた理由を訊けば
「えっと……片付けようと思いまして」
だそうだ。
片付けようとして逆に散らかす。
一種の才能かもしれないが、無駄としか言いようがない。
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二度目の悲鳴を聞いたのは、昼食後だった。
朝食を食べ終えた後、洗濯をさせたのだ。
単純な作業。
洗って干すだけ。
だというのに、悲鳴を聞いて駆けつけてみれば、洗濯物がやたらと遠くに吹き飛ばされていた。
必死に追いかけて全て集めた後に理由を訊いたら、今度は
「早く乾かそうと思って風の魔術を使ったら……」
と言ってのけた。
そりゃそうだろう。
家庭用として開発された魔術なんてほとんどないのだから。
まぁ天使が人の開発した魔術を使っているのかは知らないが……。
どっちにしろ、せめて魔力を制御するなりしていれば、こうはならなかっただろう。
物によっては二百メートルくらいは吹き飛んでたからな……。
まぁ根本的に、自然乾燥に任せていれば問題はなかったのだが、そこまでは追及しないでおこう。
被害者の俺ですら、アナエルのドジっぷりが哀れに感じてきた……。
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悲鳴が聞こえたのはリビングの方だった。
ドアを開けて、歩いてリビングへと向かう。
「きゃ……あうぅぅぅ……動かないで下さい〜」
……?
誰か来てるのか?
そんなことがあれば俺に言うはずなんだが──。
リビングに入り、唖然とした。
今日の晩飯用に買っておいた、クーコという軟体生物。
それが、アナエルの包丁を握った右手にからみついていたのだ。
クーコの主な特徴は、長い四本の足とその足についた吸盤である。
穴の中に住み、食事の時のみ外に出るこいつは実に変わった移動をする。
足を移動先まで伸ばし、吸盤で足を固定。
そのまま身体を引きずるようにして移動するのだ。
軟体生物が穴を掘れるのか、と思うかもしれないが、クーコは別の生物の穴を利用するのだ。
穴の入口から足を伸ばし、穴の中の生物を吸盤から出る毒針で攻撃。
動けなくなったところで穴にいた生物を食べ、その穴を乗っ取る、といった方法である。
まぁそいつが長い足をアナエルの腕に絡めて、更に吸盤で固定しているようだった。
アナエルは引き剥がそうとしているが、どうも力が入ってないようだ。
……毒針にでも刺されたか?
毒針とは言うが、実は毒性はそれほど高くない。
人のようにある程度大きな身体を持っている生物なら、一度刺されても少し痛いくらいだろう。
何度も刺されても、筋肉が多少弛緩して力が出なくなる程度。
普通は刺される前に引き剥がすんだが……。
余程鈍くさいのか、それとも馬鹿なのか……両方ってのはマジで勘弁して欲しいな。
とりあえず、このままじゃ飯が遠のくだけか。
溜息を吐きつつ、無意味に振り回しているアナエルの腕を止める。
そしてクーコの頭を掴み──一気に引っ張った。
「あぅっ!?」
痛そうな声を上げたが、無視。
「轟け轟音 響け雷鳴 我が手に宿りて力と成れ 触れる者に自由を許すな 戒めの雷」
呪文と同時。
静電気を受けたような音と同時に手が光り──クーコを感電させた。
中級雷系魔術、ホールディングボルト。
普通に使えばクーコなんて炭になってしまうんだが、今は魔力を極力セーブして使った。
子供一人も痺れさせることすら出来ないような電力になったが、それより小さいクーコには効果がある。
今となっては先ほどまでの動きはもうなく、四本の足を時折痙攣させるだけ。
後三十分ほどはずっとこのままだろう。
「さて……と」
俺はゆっくりと、身体をアナエルに向けた。
マヌケ面でこちらを見上げてる姿は、どう見ても大天使には見えない。
「あの……その……えと……ありがとうございました!」
……天使ってのはこんなに簡単に頭を下げていいのか?
……まぁいい。
「クーコくらい簡単に調理出来ないのか?」
無理と言うなら、俺が代わりにやった方が良いかもしれない。
「ふぇ……?」
「クーコくらい簡単に調理出来ないのか?」
聞こえてないようなのでもう一度。
「えと……クーコって……あぁ、このグニャグニャした生き物ですね。
……すみませぇん……こんなの初めて触るので……」
触ったことがないだと?
いや、天使なら当然かもしれないが……。
「あ〜……もういい。それじゃ、作ったら俺を呼んでくれ。部屋にいるから」
一度くらいは料理をさせてみよう。
それから、今後誰が料理するかを決めても遅くはない。
「あ、はい!すぐにお呼びしますので、もうしばらくお待ち下さい。ご主人様」
なぜか満面の笑みを浮かべているアナエルを尻目に、俺は部屋へと戻った。
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さて……世間一般で、一時間は『すぐ』と言うのだろうか?
しかもあんまり美味しくないし……。
「……三十点」
「えぇっ……そんなぁ……」
「味見したか?」
え……と一瞬動きを止めるアナエル。
この反応なら、答えは訊かなくても判るな。
クーコを揚げる、というのは良い。
実際よくやるし、やるのも簡単でミスも普通はない。
だが、冷めた揚げ物はダメだろう。
恐らく最初にこれを揚げて、他のを作ったからだ。
はぁ……。
軽く溜息を吐き、改めてアナエルを見る。
マジで失敗したか……?
家事がこなせないのは正直辛いぞ。
いや、まぁそこは俺が家事をこなせばいいのかもしれない。
だが、これで試合にも使えなかったら……。
あ〜……考えたくないな。
別に飯を食べる訳じゃないから、居て損はない……と思いたいんだが。
こっちの言うことは聞くんだが、そこからありがた迷惑に発展する可能性が高いとなると……。
う〜ん……。
「あの、ご主人様。もしかして何か悩み事ですか?私で良ければ相談して下さい」
食事の手が止まってる俺を不審に思ったのか、アナエルが声をかけてきた。
相談……ね。
本人に相談するなんて馬鹿な芸当、誰もしないっての。
「別にいい。それより──いつから俺のこと、ご主人様って呼んでるんだ?」
「えと……今日からですけど……ダメでしたか?」
……ダメというか──いや、止めとこう。
呼びたいように呼ばせればいい。
天使は階級制が厳しいなんて、デマの可能性が高いんだ。
「気になっただけだから構わない」
「はぁ……」
頭の上に疑問符が見えるような顔で、とぼけた声を……。
こいつを見ていたら、何だか天使に偏見を持ってしまいそうになるな……。
とりあえず、戦闘に使えるかどうか見極めないとな。
土壇場で使えないと判っても困るし。
「となると……明日は出かけるぞ」
「ふぇ……どこにですか?」
「さぁな……働きに行くから、場所は雇い主次第だ。大変だろうから早いうちに休めよ」
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家から一歩出ると、爽やかな風が頬を撫でた。
「ん……気持ちいい」
町から少し離れた丘の上。
そこにご主人様の家が建っている。
こんな所に家があるのは、先祖の人が極度の人嫌いだったからってご主人様は言ってたっけ。
活気が無くて少し寂しいけど──緑が多くて、人と自然が共存してるこの感じ……好きだなぁ。
空を見上げれば、たくさんの星が瞬いていた。
……もうご主人様は寝たのかな?
「……ふふっ」
夕食、何だかんだ言って、結局全部食べてくれたんですから。
「ミカエル様。今回は少し時間がかかりそうです。でも、私頑張ります。
あ、ご主人様は優しい方ですので、ご安心下さい。そして私のこと、見守っていて下さい──」