俺は今、自室に戻っていた。
必要な書類を探す為だ。
『アナエル』とかいう『自称』大天使は、部屋の外に待たせている。
……あった。
その書類は、机の引き出しの中にあった。
契約書だ。
それもただの契約書ではなく、その契約書に書いてあることに違反した場合、サインした本人を罰することが出来るものだ。
契約書自体に魔術がかかっているので、罰から逃げることは不可能。
かかっている魔術は強く、上級の精霊でも軽く罰することが出来る。
いくら強い力を持っていようと、無傷で逃げることは出来ないだろう。
まぁ正直、アナエルが天使だろうと天使じゃなかろうと、どうでもよかった。
あいつが凄い力を持っているのに変わりはないのだから。
「入ってきてくれ」
ドアの向こう側に声をかける。
返事はない。
しかし、その代わりとでも言うようにドアがゆっくりと開いた。
「……うわぁ……」
……?
「何が『うわぁ』なんだ?」
「あ、いえ……大したことではないので気にしないで下さい。
あ……もしかしてこの部屋の掃除が頼みなんですか?」
……つまり俺の部屋の汚さに驚いたのか。
正直なのか、それとも馬鹿なのか……。
「いや、そんなことじゃない。頼みというのは簡単で、この書類にサインして欲しいんだ。ただし、中身を読まずにね」
さて……どうなる?
もしかしたら、最後の一言で怪しまれたかもしれない。
だが、もし中身を読まれたらその時点でアウトなのだ。
契約書には、俺が死ぬまで無条件で俺に仕える、というようなことが書いてある。
読んだらまず、確実にサインなどしないだろう。
「えぇと……どうして中身を読んではいけないのですか?
書類などはきちんと目を通さないと……」
……やっぱりか。
苦し紛れの嘘をついて、押し切れるかが問題だな。
こいつが正直、馬鹿、あるいは両方のどれかなら平気だろうが……。
さっきまでのを素でやっていたなら──しかし、もしわざとだったとしたら──。
「あの、無視はしないで下さい〜」
「あぁ、すまない」
……やらないよりはマシか。
「実はそれは罰で、その紙に十人分のサインを貰わないといけないんだ。
その紙には俺が犯した恥ずかしいミスが書いてあってね……出来れば読んで欲しくないんだよ」
「私は人じゃないんですけど……いいんですか?」
気にするのはそっちか?
ていうか──疑って……ない?
「あぁ。とりあえずサインを十個集めればいいんだ。そういう訳だから、読まないで欲しいんだ」
「なるほど。そういうことでしたか……あれ……あれ?」
納得したのか契約書を手に取り……しかしアナエルは動きを止めた。
「どうした?」
「えっと……空間移動系の魔術が使えないんです……何でかな?」
あぁ……。
ペンでも呼び寄せようとしたのか……そりゃ無理だろうな。
「この部屋では、俺以外は魔術は使えないよ」
そう、ここには俺の血で描かれた魔法陣があるのだ。
魔術殺しの結界。
その結界の中で魔術が使えるのは、その魔法陣を作るのに使われた材料を身につけた者だけだ。
今回の材料は『血』。
当然、そんなのを身につけているのは俺だけで、必然的に俺以外の魔術は封じられる。
こう言うと非常に便利に聞こえるが、実はそうでもない。
効果があるのは結界の内部だけだから、部屋から一歩でも外に出れば魔術は使える。
更にこの魔法陣、非常にややこしい構成となっていて、戦闘中に作成するのはまず無理。
これを作るときも丸一晩かかったんだったか……。
それにしてもこいつ、今まで魔術が使えない、なんてことが無かったのか?
目を白黒させて、あからさまに驚いてるが……。
まぁ天使だし、使えるってのが生まれた時から当然だったのかもな。
「えぇ……と……では、何か書く物を貸して頂けますか?」
はぁ……ったく。
ペンは机の上にあるはず……って。
──確かにこれは掃除したくなるな……。
机の中を漁っている内に、机の上が中から出した物で散乱していたようだ。
無駄に多い書類や魔道具で溢れかえっていて、小さいペンを探すのも一苦労、といった感じか。
こんなことに魔術を使うというのも少しあれだが──
「来たれ ペン 我が命によりて 我が手元に舞い降りろ モンクルス」
──まぁ面倒だしな。
モンクルスが発動した。
書類の山の中から一本のペンが飛び出し、磁石に引き寄せられるように俺の手の中に収まる。
俺はそれを流れ作業で、アナエルへ軽く投げた。
「あっ……」
アナエルは受け取ろうとし──
「あぅ!?」
──頭に直撃した。
……何て言うか……天使って──。
「はぅ〜……」
頭を押さえてしゃがみ込むアナエルを見下し、抱いた感想は──。
──案外鈍くさいんだな。
のろのろとアナエルはペンを拾い、床の上に契約書を置いた。
どうやら、馬鹿正直に俺の言ったことを守っているらしい。
一番下のサイン欄から少し上を折って、視界に入ることすら防いでいる。
「アナエル……っと。これでいいんですか?」
……書き終わったか。
サインが終わったのなら、もう言ってしまってもいいだろう。
「ありがとう。ところで話は変わるけど……抜けてるとか、馬鹿正直とか、よく言われない?」
「えぇ!?どうしてそんなこと知ってるんですか!?」
……言われてるのかよ。
つまりアナエルが特別ってことか……ちょっと安心したような……。
「よく何が書いてあるか読まずにサインする気になったなぁ」
「え?だ、だって、えぇと……あ、そうだ。お名前は何ですか?」
あぁ、そういや言ってなかったか。
「クラムだ。ベスニール・クラム。クラムでいい」
「判りました。……えっと、それで、クラムさんが読むなって言うから……」
「マジで信じてたから逆にこっちが驚いた」
「え!あれ嘘だったんですか!?」
……うわ。
こいつ、真性の馬鹿だ。
この反応、全く疑ってなかったのか。
「まぁ……あれだ。説明は面倒だから、その書類読め。状況把握出来るから」
「え?読んでいいんですか?」
「……さっき嘘って言ったばかりだろ……」
「あ、そういえばそうでした〜」
アナエルは慌てて契約書に目を向け、書かれている文字に目を走らせている。
……こいつ選んだの失敗だったか?
忘れっぽいなんてレベルじゃねぇぞ……これ。
馬鹿正直にも程度があるし……俺が扱う分にはやりやすいだろうけど、戦闘中とかで敵に騙されそうだよな……。
ちなみにアナエルは今、大体半分くらい読んだって所か。
目が動くにつれて、どんどん表情が硬くなっていっているのは気のせいではないはずだ。
数秒、アナエルが読み終わるまで俺はジッと待った。
吐息を吐きながら目を契約書から離すタイミングで、声をかける。
「……理解したか?」
「えぇ……何とか。でもこれ、詐欺って言いませんか?」
「かもな。でも、騙される方が悪いんだ。ま、これからは俺に従っていればいい。
天使だったら、こういう契約には逆らっちゃいけないよな?」
笑顔で告げる束縛宣言。
釈然としてないような顔つきだが、それでもそこは天使らしい。
「あうぅ……こうなったからには仕方無いです……ね」
変な呻き声を上げながら、ちゃんと頷いた。
さて……これが吉と出るか凶と出るか……不安だな。